前回の "Dive #108 ダイバーとしての個人史 #3 バディについて (2)" で、1990 年 03 月 21 日 (Wed) の小野寺くんとの高嶋インストラクターの下でのレスキュートレーニングが、ぼくのダイバーとしてのターニングポイントとなったと書きました。
他の人からみると大げさに感じると思うのですが、ぼくのダイビングとの向き合い方、ぼく自身以外のダイバーとの向き合い方、そしてショップが提供している継続コース、ファンダイビングツアー、機材、そして指導団体といったリソースとの向き合い方全てが根本的に変わってしまったのでした。
ダイビングは主体的に関与するもので、それは当たり前のことなのですが、この時にぼくはなぜ主体的にダイビングに関与するのかの答えを得たような気がします。答えはただ一つ、バディに信頼されるダイバーとなり、そしてバディと共にダイビングライフを生き抜くため、というのがその答えになります。
マニュアルに書いているからでもなく、インストラクターにそのように指導されたからではありません。もともとはそのような文脈でダイビングやバディと向き合ってきましたが、このときからそれが根底からひっくり返ります。自分がダイバーとして成長するのも、継続コースやショップツアー、機材、その他の全てが、自分とバディのダイビングライフを支えてくれる、助けてくれる、というパラダイムに完全に切り替わりました。
オープンウォーターで学んだこと、それ以降の経験全てが意味することはそういうことだったのか、とこのとき初めて理解したのでした。
ぼくにとってバディというダイバーは、このときから本当の意味でダイビングを共に安全に楽しむ共同作業者になりました。ぼくが今でもバディシステム重視を声高に叫ぶのは、このときが全ての原点だからということになります。
さらには、ショップはそこに属してその中でいろいろ教えてもらう、バディとだけでは潜ることができないポイントに行くため助けてくれるところに変わりはないのですが、ショップが所属するところから、必要な時に助けを得るために "使うところ"に変貌したのでした。
使うところと書くと語弊がありますが、バディ・ダイブをベースとして、ぼくとバディを助けてくれて、知識、技術の援助してくれるのがダイビング・プロショップでありインストラクターであり、アシスタント・インストラクターであり、ダイブマスターであると変化した、ということを意味します。
ですから元々持っていたダイビング・プロショップ、インストラクター、アシスタント・インストラクター、ダイブマスターへの信頼と尊敬が、さらにより強固になったと言えます。 つまりダイビング・プロショップ、インストラクター、アシスタント・インストラクター、ダイブマスターは、ぼくたちバディチームの "母港" になったのでした。
ですからぼくや小野寺くんにとってはダイビング・プロショップ、インストラクター、アシスタント・インストラクター、ダイブマスターはサービス提供者などという軽々しい存在などではなく、ダイビングライフを支える母港であり、灯台であり、進むべき道を指し示す先導者としての立ち位置がより鮮明になったのでした。
そのとき生じたパラダイムの変化に当時は気がついていませんでしたが、今ぼくがよく口にする「ショップやインストラクターを上手に使ってください」という言葉は、このときのパラダイムの変化が元になっていると、いま振り返ってみるとそれが了解されます。
このようなパラダイムの変化は、今でこそこのように言語化できていますが、当時はまったくそのような変化が自分の中で起きているということに気がついていませんでした。
ですから今日のメインのお話になる、各ダイビングでぼくと小野寺くんがどのようなダイビングをしていたのかを、これからご紹介することになりますが、まったく普通のダイビングをしていたことになります。ただこれまでとの違いはボートダイビングを除いて、そこにはインストラクターの姿もアシスタントの姿もダイブマスターの姿もないということです。
とはいえ "Dive #107 ダイバーとしての個人史 #2 バディについて (1) 【はじめての管理者を伴わないバディ・ダイブ】"で述べた普通のダイビングと同じ普通のダイビングを普通に行っていたことに変わりはなかったと言えます。
能書きはここまでにして、実際の彼とのダイビングがどんなものだったのか、ログブックから転載再編してご紹介していきます。
以下のダイビングは小野寺くんとは行えませんでした。2 人とも SE としての仕事が忙しすぎてスケジュールがどうしても合わなかったからです。
そして以下の NAUI Rescue Diver スペシャルティコースを受講することで、小野寺くんとの約束の 1 つをまずは果たします。
Rescue Diver スペシャルティコースは奇しくも小野寺くんと共に高嶋さんの指導で CMAS 1 Star Diver コースのレスキュートレーニングを受けたのと同じ、白浜の円月島で、コース基準を満たす 3 本の海洋実習が行われました。
レスキューコースをお願いしたのは将来のぼくの師匠にお願いしました。高嶋さんではありません。ぼくは師匠についていくと Open Water I の当時から決めていましたので、そこは変更しませんでした。変更するつもりもありませんでした。これは還暦を過ぎた今でもまったく変わりがありません。
1991 年は仕事が忙しすぎて 2 本しか潜っていないのですが、もちろんぼくも小野寺くんも忙しすぎてスケジュールが逢いません。なんどでも言いますけど、バブルや IT バブルが良かったというのは、一体誰が言ってるの?
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1992/08/08 (Sat) #50 福井県越前町 軍艦岩 10:38 11:00 22.0m 東京の長期出張から大阪に戻ってからの最初のダイビング。久しぶりにぼくのバディの小野寺くん (仮名) とスケジュールが合って、やっと彼と越前行きが実現することに。
もちろんかねてから軍艦岩に彼を連れて来たいと思っていたこともあり、1 本目は予定通り軍艦岩をチョイス。越前ダイビングサービス (もしかすると当時からあったかもしれない越前マリンサービス) で二人のタンクを借りて 10 分ほど車で引き返す。軍艦岩のエントリーポイントの前に、道路を挟んで小さな駐車場がある。そこに車を止めてセッティングを行う。
軍艦岩は越前では割と人気があるダイビングポイントだという認識だけれども、この日はまだゴールデンウィーク中ということもあって、越前を訪れるダイバーは少なく、駐車場はぼくたちの車しかなかった。
機材を身に着けてバディチェックを終え、道路を渡って、道路脇の階段を降りて岩がゴロゴロしているビーチに降りてエントリーする。小野寺くんは耳抜きがしにくい体質だということもあって、彼があまり耳抜きで苦労することがないように -2m あるかどうかという浅い水深からさっさと潜降する。深めの水深でフリー潜降なんて、普通耳抜きで苦労しない体質の人でも苦労する。なので耳抜きがしにくい体質の小野寺くんのようなバディが一緒のときは、背が立ちそうな水深から潜降してしまうのがセオリー。
小野寺くんが耳抜きができているか確認しながら軍艦岩へと向かう。
やはり小野寺くんは耳抜きに苦労していて困っている様子だったので、スレートにあまり水深を取らずに無理せず行こう、と書いて筆談で彼に言う。
軍艦岩に向かう途中の岩礁に魚網が引っかかって上の方に漂っていたので、なるべく近づかないようにコースを取るのだけれど、小野寺くんが脚をその魚網にひかけてしまい絡まってしまう。彼がパニックになるってことはまったくなくて、落ち着いて脚に絡まった網を外そうとしている。でも見てると苦労してるようなので、彼に寄って行ってぼくが絡まった網を外す。
魚網だし切っていい網なのかわからない。もし海老などを採るために入れている網だったりした場合、潜っているダイバーが勝手に切ったりすると大問題になる。漁のために入れている網をダイバーが切ったら、恐らくダイバーはその海にもう入れてもらえなくなる。なので切らずに解いて外す。もしどうしても切らないと危ない、つまり死亡事故になりそうなら切らざるを得ないが、その場合は絶対に漁協にどこのどの辺りに合ったあった網をやむなく切ったことを知らせて、お詫びにいかなければならない。それくらい漁協や漁師さんに気を使って潜る必要が、今でも日本にはある。
海は誰のものでもないということを言い放つ何も分かってないやつはたしかにいる。たしかに正論ではあるかもしれない。だけど日本では海で生活の糧を得ている人の言葉のほうが当たり前だけど優先される。それはやはり海から生活の糧を得るってことは、天候や海の状態に大きく左右されるので、生活基盤そのものが不安定なものだからということになる。
漁業というものが単純に危険な業態だということもある。仮に事故になったら大抵の漁師さんは助からないことが多い。船底一枚下は地獄という言葉があるが、あれは大げさな話ではなく、それくらい海での操業というのは危険を伴うのだ。
ダイバーがその気になれば、なんでもホイホイと簡単に --実は簡単ではないけれど-- 取り放題だとも言える。いや実際には取り放題なんて無理なんだけど、潜らない人からはそう見えてしまう。そのため漁業従事者の人たちからのダイバーに対しての疑いの厳しい眼差しは和らぐことはない。取れてしまいそうな以上、信じることはできないのだ。
実際に漁業従事者の人たちが育てて幼生を放流して種を巻いたサザエなどは、ダイバーがその気になればホイホイと取れてしまう。取れてしまう以上信じることは不可能なのだ。
漁業調整規則や各都道府県条例でダイバーだけに限らないが密漁が禁じられており、罰則が厳しいものでは懲役刑なのはそのためでもある。
それで小野寺くんの脚にからまった網を外すのに、かなり手間取ってしまった。エアもガンガンに消費してしまっていて、予定よりエアの消費が早い。軍艦岩をぐるっと 1 周してエントリーポイントの戻ることを予定していたのだけれど、ちょっと難しいかもと考えた。無理そうと判断したらそのまま来たコースを引き返すように予定行動に少し修正を加える。最大水深も -25m くらいを想定したけれども -20m までに抑えることにする。
無理をしたって、いいことは何一つない。今日だめなら、また来ればいいのだ。
結局二人の残圧をチェックしながら、水深も深くならないように注意することで、軍艦岩をぐるりと一周して、元のビーチでエキジットすることができた。小野寺くんも軍艦岩の地形が気に入ってくれたようで、「大山さん、ここ、いいっすね」を連発していた。気に入ってくれてよかった。
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1992/08/08 (Sat) #51 福井県越前町 玉川観音前 14:27 14:58 12.0m ダイビングサービスで軍艦岩以外におもしろいポイントはないかと訊いて教えてもらったポイント。実は記憶に全く残ってない。申し訳ない。ダイビングを終えてダイビングサービスにお店のステッカーをもらう。早速車に貼る。小野寺くんももらっていた。でかい越前ガニがデザインされた、ちょっと垢抜けない日本海側のサービスを思わせる、これはこれで好きなステッカーだった。
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1992/12/05 (Sat) #52 和歌山県白浜町 梶原島 12:50 13:32 12.0m ぼくのバディの小野寺くん (仮名) とスケジュールが合って、再び白浜に。寒くなり始めから白浜とかマゾかなにかなんだろうか、と一瞬思ったけど、12 月に日本海側はないなと思って、南紀を選ぶ方がまともだと思い直す。
よくよく考えたらぼくも彼も 5mm の上下なんだけど、ぼくは裏スキンのビーバーテール付き、彼はビーバーテールこそないけれどやはり裏スキン。なので 12 月始めの白浜くらいの水温なら、ぼくらにはなんでもなかったりする。
そんなわけで、彼とまたバディ・ダイビング。今回はなぜか CMAS コースディレクターの高嶋さん (仮名) には同行していただいていない。なぜかは覚えてないのだけれど、スケジュールがあわなかったのかな?
ただ高嶋さんに同行をお願いするとボートになっていたと思うので、高嶋さんが一緒だと梶原島に小野寺くんと一緒することはできなかったと思う。
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地理院タイルに梶原島ビーチダイビングポイントの場所等を追記して掲載
クリックまたはタップで別タブに拡大表示されます1987 年 9 月 27 日のログにも書いたけれど、梶原島のエントリーポイントは道路から坂道を下ったところにある。
このとき現地では小野寺くんが運転をしていたのだけれど、車を止めて二人が機材のセッティングをしていると、なんだか車がゆるゆると動き始めている。
なんだってーっ!?
坂道と言うか道じゃないところを下っていこうとする無人の車を二人で必死で止める。窓から車内をよく見るとサイドブレーキを引いてない!!おぃぃぃぃぃぃっ!!小野寺くぅぅぅぅぅんっ!!仕事が忙しすぎて疲れてんのかーっ!?
とりあえず小野寺くんが車に乗ってサイドブレーキを引いて一見落着。一見落着じゃねーっ!!
ともかく車を止めて、機材を背負って坂道をえっちらほっちら降りていく。なんかこの頃のダイバーってやたらと坂道を降りたり登ったりしてたな。
にしても人が少ない。いや、ぼくら以外にダイバーがいない。いつもダイバーが一杯な梶原島の土曜日なのになんでだろう?と思うのだけれど理由は一度タンクを交換するために、いつものペンションに戻ったときにわかる。
エントリーしてからはいつも通りのコースをたどる。
梶原島脇の水路を通って、沖側の水路に入り込み、突き当りまで水路をたどる。たどるんだけども、なぜか今日はあるはずの突き当りに突き当たらない。沖側の水路は 1 本しかないので間違うはずがない。うーんそろそろ引き返さないとという残圧になったタイミングで、結局今どこなの?と思って二人で浮上してみた。
太平洋側からの梶原島を見上げる。この角度から梶原島を見れるのはダイバーの特権とも言える。理由はわからないけれど、あるはずの突き当りがないものはないので、再潜降して戻り始める。
クロホシイシモチの群れなどその他白浜でよく見る子たちは普通にいるので、そんな子たちを見ながらのダイビングになった。クロホシイシモチの何匹かが、口の中に抱卵していた。つまりその子たちはオス、つまりお父さんってことになる。そんなことを話しながら車でペンションに戻る。
ペンションに戻ったらペンションを管理しているおばちゃんに「え?梶原島で潜ったの?あそこ、もう潜ったらあかんねんで」と教えてもらう。え?そうなの?とぼく。理由は教えてもらってないけど、もう梶原島は潜れないらしい。何があったんだろうか。
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1992/12/05 (Sat) #53 和歌山県白浜町 円月島 15:52 16:45 9.0m この日の 2 本目はぼくと小野寺くん (仮名) のホームと言ってよい円月島。水深は浅いしエアも保つので 53 分とやたらと長いダイビング。エアに余裕はあったけど、最終エキジット時間に近づいていることもあって今日のダイビングはここで切り上げる。
やっぱりぼくは気心がしれた友人と、浅いビーチでなにか生物を探しながら、のんびりと潜るのが好きだ。ボートで興奮するような刺激的なポイントももちろん好きだけどね。
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1993/07/19 (Mon) #54 福井県越前町 軍艦岩 12:14 12:40 18.0m ぼくと小野寺くん (仮名) のスケジュールがやっと合って、潜りにいける ようになるまで半年くらい開いてしまった。まだ IT バブルと呼ばれる時期が続いていて、お互いに忙しすぎた。たとえ好景気であっても過剰なのって本当に嫌。
今日は車の中で小野寺くんが「仕事しかできない人間って思われてるのがすごく嫌!!」なんてことを言っていて、過剰な景気がいろんなほころびを、しかも周囲の人達との人間関係に絡むほころびまで押し付けてくるのが、ぼくも本当に嫌だった。
それはともあれ半年ぶりのダイビング。二人共楽しむつもり満々だった。
ただ小野寺くん曰く、今日は耳が非常に抜けにくいとのこと。一応耳鼻科で耳管に空気を通してもらってきてはいたけれど、それでも耳が抜けにくいとのこと。仕事が忙しすぎて疲れているのかも知れない。とりあえず彼には、無理せずに無理だったら浅い水深で楽しもうと言った。
いつもの通り越前ダイビングサービス (越前マリンサービス?) でタンクを 4 本借りて、軍艦岩まで車で移動。エントリーしたもののやはり彼が耳抜きで苦労している。なので無理せずにあまり深い水深までは降りずに軍艦岩を一周してエントリーしたビーチに引き返す。
今のショップツアーに参加する人なら申し訳なさそうに他のゲストに謝ったりするけれど、ぼくと小野寺くんの関係はそんな他人行儀なものではない。そもそもぼくが困っているときは小野寺くんが助けてくれる。彼が困っているときはぼくが助ける。困ってるときは本当にお互い様なのだ。だからぼくも彼も怒ったり謝ったりといった不必要な忖度はしない。だってぼくたちはバディなのだから。常にお互い様なのだ。
そんなわけで、次のポイントはどこにしようか、などと相談しながら車を走らせる。
Date Dive No. Location Start End Max Depth 1993/07/19 (Mon) #55 福井県越前町 カレイ崎荘前 15:55 16:35 12.0m ぼくと小野寺くん (仮名) が車を走らせているときに小野寺くんが干物を買っていきたいというので、適当に見つけたお店に車を止めて飛び込んだ。バディ・ダイビングはこういう自由がきくのがとてもよい。
買い物を済ませて会計をしているときに、お店のおばちゃんに、さっき軍艦岩で潜ってきたのだけど、このあたりで他にダイビングポイントはない?って訊いてみた。
すると、かれい崎荘ってところの前で、よく潜っている人がいるとのことで、どんなところなのか知っていたら教えて欲しいと頼み込む。なんでも整備のために漁船を上げるスロープを降りてエントリーしてまっすぐ沖に向かうと、魚礁が沈められているとのこと。
なので次のダイビングは二人で相談してかれい崎荘前にする。かれい崎荘が今でも残っているのかどうかは知らない。
かれい崎荘前の駐車場に車を止めて、セッティングを終えてエントリー。でもよくよく考えたら、真っ直ぐってどっちの真っ直ぐだ?ってなってしまった。方角まで訊いてない。でもエントリーしてすぐで、距離はほとんど離れていないと訊いていたので右側の堰堤沿いに潜っていく。
小野寺くんはやはり耳抜きがほとんどできずに水深 -4m くらいから下には来ない。浮上して中止する?と尋ねるが潜水を継続したいという希望。なのであまり深く潜らず、というよりも水深があまりないので深く潜りようがなかったのだけど、スキンダイビングでいいのでは?という水深で潜る。
ただエントリーをしてからの方角を訊いておかなかったのは大失敗で、魚礁なんてぜんぜん見つからない。見つかるのは地元の人が捨てたと思われる自転車などの粗大ごみばかりだった。
魚礁を探し回って、いいかげん時間も経っていたので、二人で相談してエントリーしたスロープに戻ってエキジットした。
情報収集不足という反省点があったダイビングとなった。
それと小野寺くんが日本 Oracle に転職してしまって、仕事で日本全国を飛び回るということになってしまい、彼とのダイビングはこれが最後になってしまう。まさか彼ともう潜れなくなる日がやってくるとは思っていなかったのだけれど、連絡を取り合うことすら困難になり、そのまま疎遠になってしまった。
この後ぼくはアドバンスを受講することになるのだけれど、もし彼と潜り続けることができていれば、アドバンスを取りはしたとしても、恐らくインストラクターになって開業を目指すという道は選んでいなかったと思う。インストラクターや開業を目指すきっかけになったのは、たしかに大瀬崎や雲見でのダイバー消失事件ではあるけれど、彼と潜り続けることができていれば、ぼくは相変わらず彼とファンダイブを楽しんでいて、1 ファンダイバーとしてその後も過ごしていただろうなと思う。
なので大瀬崎と雲見でのダイバー消失事件と、小野寺くんと潜れなくなったことが、ぼくのダイビング人生を大きく変えてしまったと言える。
こんな感じでぼくと小野寺くんはバディ・ダイビングを続けていました。先のターニングポイントだとかパラダイムシフトだとかの言葉が大げさに聞こえるくらい、普通のダイビングを行ってるように見えるかと思います。
そうなんです。バディ・ダイビングは特別な何かではなくて、普通のダイビングをバディと行う、ただそれだけのことなのです。ただ内面的には過剰な依存性を極力捨て、ダイバーとしての精神的成長がある程度伴わないと、恐らくはできないダイビングスタイルなのかも知れません。
次回は小野寺くんとのしあわせなダイビング・ライフが終わり、ぼくたちが理解できない考えを持つ人たちがダイビングの主流となり、バディと楽しく自由に潜るダイビングの終焉の始まりを取り上げたいと思います。