バーr……blog のようなもの 2026 年 01 月

01 月 10 日 ( 土 )

Dive #107 ダイバーとしての個人史 #2 バディについて (1)

【はじめに】

前回バディという言葉を後半に何度も登場させました。今回からしばらくの間、ぼくにとってとても大切なバディとはなにかについて、ぼくの自分史の一部として少し深堀りしていきたいと思います。

おそらく現在のダイバーさんとは大きく異なるバディ観を持っているという自覚があるので、へぇ、と思われるかもしれません。でもわりと古いダイバーにとってのスタンダードでもあります。現代のダイバーさんには読み物としてさらっと読んでいただければ幸いです。

現在ぼくはバディというのは、自分自身とバディへの責任を自分で背負った自立したダイバーが、お互いに目的を共有し、お互いにダイバーとして高め合い、楽しみを共有し、いざというときには助け合い、よりよいダイビング体験を追求する同志という理解でいます。

上記は固い表現なのですが、もっと普通の柔らかい表現をすると、ダイバーとして信頼でき、お互いに貴重な時間を共有し、いざとなったときは助け合える、そんな強固な絆で結ばれた親友である、と思っています。

でも本当にどうしようもなくなっときは、お互いに見捨てる覚悟も、見捨てられる覚悟もある、そんな特殊な親友でもあると思っています。おそらく実際にはお互いを見捨てることなんてできずに、おそらく生も死も共有することになるとは思いますけれど。

そのように信ずるようになったのは、ぼくが最も信頼するバディであり、心からの親友であると今でも信ずる小野寺くん (仮名) の存在があります。小野寺くんとの話も後日登場します。

まず始めにぼくの最初のバディとなった NAUI Open Water I の講習を一緒に受講した児島さん (仮名) にご登場願い、最初にインストラクターの管理下を離れて完全なバディ・ダイビングを一緒に行った方、その後に小野寺くん、その後東京で見かけてぼくがインストラクターと開業を目指すきっかけになった危険なダイバーお二人、ぼくが師匠にアシスタント・インストラクターに認定される前後に出会ったダイバーとしての素行に問題があったと感じる丘くん (仮名) と原西さん (仮名) に登場していただき、ぼくのバディ観がどのように醸成されていったかを俯瞰してみたいと思います。

【児島さん時代 - NAUI Open Water I の講習から始まる海恋時代 - マニュアル+αの時代】

ぼくは "Dive #104 ダイバーとしての個人史 #1" で書いたように、1987 年に NAUI Open Water I の講習を海恋アレンというダイビングショップで受けました。

Open Water I の講習ではバディ・ダイビング・システムについて独立した章で学びます。またバディとはぐれたときの対処法の章もあります。またそれだけではなく、緊急浮上法や潜水計画の章においても、その他の章に置いても頻繁にバディという言葉が登場します。

それくらいにバディ・システムはダイビングで命を失わないためにとても重要なものだと、Open Water I の講習で叩き込まれたといえます。

実際の限定水域とオープンウォーターでの講習では、現在の Open Water の講習と同じく、スキルを中心とした講習が行われていました。

限定水域での講習にせよ、オープンウォーターでの講習にせよ、当時はスキン・ダイビングにもある程度力が入れられていました。スキン・ダイビングでもバディ・システムは維持されなければならず、1人が潜っているあいだは、もう1人は水面で待機し、いつでも潜ってバディをサポートできるように準備しておくことを教わりました。またもし潜水中のバディが拘束されるなどの緊急事態になると、水面で待機していたバディは速やかに潜水し、拘束されているバディの網やロープなどを切断してレスキューするのだと指導されていました。

スキンダイビングのあとに行われたスクーバの講習では、直接バディが関与するのはバディ・チェック、エントリーの協力、エキジットの協力、エア残量の相互チェック、異常な呼吸パターンの相互チェック、アイコンタクトへの異常な反応に対する相互チェック、パニック予防のためのバディへの STOP、THINK、GET CONTROLE、GO の相互指示など、今から考えるとけっこう多岐にわたっていました。

これを今のダイバーが見たら厳しいと思うかも知れません。ですが昔も今も NAUI のコース基準にはやれ、達成せよ、と書かれています。MAST 項目としてリストされています。省略してはいけないものなのです。ダイバー全員が身に着けなければなりません。身につけていないのなら、その人はダイバーとして認定されてはいけないことになっています。

理由はシンプルで「海で死なないため」という理由になります。

また学科ではバディでダイブサイトの情報を収集し、バディで海況を判断し、必要であればバディでスキンダイビングの軽装備でダイブサイトを調査し、バディでダイブテーブルを使って潜水計画を立てて、バディでその潜水がどうであったのか振り返りなさいと記載されています。もちろん学科で学びます。

その頃のぼくのバディは児島さん (仮名) という方で、Open Water I の講習から、ぼくが海恋アレンを離れるまで、ずっとバディを組むことになります。

海恋の常連と呼べるのはぼくと児島さん二人っきりだったのですが、二人が NAUI Open Water I ダイバーとして認定されてからも、ずっと海恋にはお世話になり、ファンダイバーとしてツアーに参加しながら、ぼくと児島さんは海恋の岡村社長 (NAUI インストラクター) と坂下インストラクター (NAUI インストラクター) に、単にダイビングを楽しむだけでなく、都度指導も受けていました。

先に述べた学科で学ぶけれども、実際にダイブサイトでは行われるのが現在では稀な情報収集や、地勢の読み方、海況判断、ダイブサイトの調査、実際の潜水計画、ダイビングの振り返りなどは、ツアー内で教えてもらっていました。本来は Open Water I の講習内で実習として行うのが理想なのでしょうが、受講生的にもスクール的にもスケジュール的にどうしても厳しくなりますし、というよりも講習が永久に終わりませんし、これらはファンダイブ上でないと学べません。

ですからコース基準としてもファンダイブ・ツアーを継続教育と位置づけて、実際にぼくと児島さんも、Open Water I のチェックアウトダイブから、ダイブサイトでのダイビング・サービスへのヒアリングによる情報収集や、ダイブサイトでの海況の実地判断の仕方、実際にバディでの潜水計画立案、水中での海況変化の見方、判断の仕方、など、バディ・ダイビングに必要なさまざまなことを学んでいきます。

そして水中でも、ぼくと児島さんは、必要であればエントリー、エキジットで協力し、お互いのエア残量をモニターし、アイコンタクトをなるべく頻繁にとり、お互いに常に異常がないかモニターし合いながら、珍しい生物や光景があるならお互いに教え合ったりするということをダイビング中は常に行っていました。

またぼくと児島さんがお互いのエア残量を確認して、そろそろ陸に戻るべき、と考えた時点で岡村さんや坂下さんにハンドサインを用いて、そろそろエキジットポイントに向かうべきでは?と言って、全員揃ってエキジットポイントに向かうようなことをしていました。

岡村さんや坂下さんが画像のようにぼくと児島さんを常にモニターし、気がついたことがあれば、ぼくたちはコメントや指導をいただくということを繰り返していました。もちろんぼくたちの上に位置していたというわけではありません。横に付いたり前に付いたりと臨機応変に動いてらっしゃいました。

また指導を受けると言ってもファンダイブなので講習然としたものではありません。楽しみながらバディ・ダイビングに必要な全てを教えていただくって感じでした。

もちろんすぐにバディ・ダイビングができるとは思えなかったので、岡村さんや坂下さん、"Dive #104 ダイバーとしての個人史 #1" にも出てくる齋原インストラクターの管理下で、バディ・ダイビングを続けるという日々が続きます。

今日登場した人たち
名前 (仮名)性別どんな人
坂下さんインストラクター (NAUI)、 まるで兄貴のような先輩ダイバー
岡村さんインストラクター (NAUI)、 真面目な作業請負小企業の社長さん
齋原さんインストラクター (NAUI)、 海の遊び方を知る先輩ダイバー
児島さんゲスト、ぼくの初めてのバディ、 お店に遊びに行くといつもテニスウェア
【はじめての管理者を伴わないバディ・ダイブ】

1989/06/04 (Sun) に和歌山県由良町 白崎立巌にて、インストラクターなどの管理者を一切伴わない初めてのバディ・ダイビングを行いました。

よりにもよって人生初の完全バディ・ダイブなのに、ご一緒した方の名前をまったく覚えていません。ログブックにはサインを頂いているはずなのですが、ログブックは 1995 年の阪神・淡路大震災で被災した時に倒壊して瓦礫と化した自宅とともに滅失しました。そのためデータ以外の記録が一切残っていません。

学生の頃からダイビングをやっていて、当時は休眠状態だった方でした。メガネをかけたシュッとした方だったと記憶しています。

当時学生の時にダイビングをやっていたという場合、それは日本学生潜水連盟に加盟していた体育会系の潜水部だとか水中探検部などに所属していたことを意味します。一般的な社会人になってからダイビングを始めたビギナーダイバーからすると、すごい人だったりするわけです。

今から考えると、ぼくの面倒をガッツリ見て頂いてたんだろうなと冷や汗が流れます。当時のぼくは初のバディ・ダイビングだと思っていたわけですが、実際には大先輩にお世話されたダイビングだったのだろうと思います。

もちろんマニュアルに書かれていたり、海恋時代に児島さんと身につけてきたバディとしての基礎は行っていたと記憶しています。ですけれど、おそらくはこの方のバディとしてはぜんぜん役不足だったのではないかと、背中に冷や汗が流れます。

ぼくはバディとしてちゃんと行動していたと思うのですが、もしかするとぜんぜんダメなバディだったかも知れないと、今となってはわからないのですけれど、そんな危惧が脳裏から消えません。

そもそもどこで出会ったのかすら記憶していません。車を出していただいて運転までお任せしてしまっていたのに、本当に申し訳ありません。お前はなぜ運転しないのだ?と問われると、当時ぼくは普通自動車免許をまだ持っていなかったのでした。

そしてこの方とは 1989/08/06 (Sun) の福井県越前町 軍艦岩でのダイビングがこの方との最後のダイビングとなります。

つまりこの方とはたった 2 本しか一緒に潜ったことがありません。なんでそうなっちゃったのかはぼくのデジタル化したダイビングログに記載していますが、そのときのデータを除く記録部分をそのまま転記します。

Date: 1989/08/06 (Sun)
Location: 福井県越前町 軍艦岩

今回もショップのツアーではない、完全バディ・ダイビング。バディ・ダイビングとしては 4 本目。

今日のバディは前回の和歌山県由良町の白崎立巌でご一緒した方。再掲することになるが、どこで知り合ったのか実はまったく記憶にない。ダイビングを以前やっておられて、しばらくはやっていないとのことだった。お願いして一緒に潜りに行くことに。メガネをかけておられた。車の運転を全ておまかせして申し訳なかった。この頃ぼくはまだ普通自動車免許を持ってなかった。

車を出して頂いて、さらに運転を完全にお任せるというのが申し訳なくて、この人とはこのダイビング以降、疎遠に。この人には、ぼくから声をかけていたのだけど、あまりに申し訳なくて、声をかけられなくなってしまったのだった。

軍艦岩は大きな岩がゴロゴロするビーチからエントリーする。軍艦岩に向かって潜っていくと、大潮の満潮などでは最大水深 -30m に達する。そうでなくても今回の最大水深が -24m だということからわかるように、ディープダイビングになる。

とはいえ、あまり難しいポイントでもないので、減圧症にならずに事故にもならずに上がってくればいいやろ?と割とのんきに潜っていた。

サニーベイルさんの画像を見ればわかるように、沖側の深場から軍艦岩を見上げると、ど迫力で、すんげーとなる。

ぼくもこのとき Sea & Sea のカメラを持って入っていたのだけれど、やっぱり震災で全て失ったので残っていない。

最大水深が -30m 近くあり、ディープダイビングになるので、残圧と MDT の管理だけはしっかりとする必要がある。

当たり前だけど、当時はダイブテーブルをちゃんと引いて計画を立てて潜っていた。オープンウォーター Ⅰ しか持ってなくて (当時 NAUI の Open Water には Ⅰ と Ⅱ があった)、経験本数が 30 本に満たないダイバーでも、ぼくのような超絶意識が低いダイバーであっても、ダイバーであれば誰にとっても、そんなことは当たり前なんだよ?

今の人たち、わかってる?

それでぼくたちは最大水深までは降りなかったのだけど、それは海底の何かを観たいって言うよりは、軍艦岩そのものを観ていたかったから。なので下まで降りる必要がまったくなかった。

それに彼はダイバーとして先輩であったし、経験本数もぼくよりもあったけれど、ぼくらはやっぱりオープンウォーター Ⅰ だということもあって、あまり深いところには行かないほうがいいだろうってことで、水深計で水深をチェックしながら、軍艦岩を眺めてた。

ぼくはこの沖側の深めの水深から見る軍艦岩がとても好きで、これ以降バディ・ダイビングで越前を訪れるたびに、軍艦岩に入ることになる。なんだか北アルプスの立派な山容の山を見上げてる、そんな気になってしまうのだ。

長くなってきたので続きは明日以降のエントリーに書きます。次回は【小野寺くんとの出会い - 魂としてのバディ】をお送りします。デュエルスタンバイ!!