The road Orz passed by 2026 年 01 月

01 月 04 日 ( 日 )

Dive #103 ダイバーとしての個人史 人物一覧 #0

相変わらず無計画なまま、きまぐれで、ぼくのダイバーとしての個人史を書き始めることにしました。タイトルは "ダイバーとしての個人史" ってことにしました。

このサイトの過去のエントリーやダイビングログブックと重複することも書くと思いますが、よろしくお願いします。

初回はまずは登場する人物紹介に当てたいと思います。2025 年 9 月からダイビングを再開したこともあって、人物紹介も更新されていくかも知れませんが、まずは再開前までの登場人物の紹介をしていきたいと思います。

それなりにこれまでお世話になった人って少なくないので、一覧があった方が混乱しにくいかな?と思ってまとめました。人物相関図なども作ったので表と合わせて参照していただければ幸いです。

人物相関図は Google Gemini の力を借りて作成しましたが、全員を 1 枚の図にまとめると、いろいろ細部が崩壊することがわかりました。ですのでグループごとに 1 枚のペースで人物相関図は作成しています。ご了承ください。

1. 海恋 (AREN) 関係
名前 (仮名)性別どんな人
坂下さんインストラクター (NAUI)、 まるで兄貴のような先輩ダイバー
岡村さんインストラクター (NAUI)、 真面目な作業請負小企業の社長さん
齋原さんインストラクター (NAUI)、 海の遊び方を知る先輩ダイバー
児島さんゲスト、ぼくの初めてのバディ、 お店に遊びに行くといつもテニスウェア
2. プライベート関係
名前 (仮名)性別どんな人
小野寺くんぼくが最も信頼するバディ, 客先企業で出会う
高嶋さんCMAS コースディレクター、本業は医療機器卸管理職
敦子妻、職場結婚、ノンダイバー, 体験ダイバー
馬場さん敦子の大学生時代の友人、ノンダイバー, 体験ダイバー
3. Diving Spot Triton 関係
名前 (仮名)性別どんな人
師匠Diving Spot Triton インストラクター (NAUI, CMAS Stars, PADI, BSAC, SSI, etc)
トモニャン先輩Triton インストラクター (BSAC)、師匠の次に影響を受けてるかも
嘉藤ちゃんDiving Spot Triton ダイブマスター (NAUI)、ぼくがプロになるよう背中を押した人
伊納くんDiving Spot Triton インストラクター (NAUI)、ぼくがプロになるよう背中を押した人
小海船長串本の船長、2025 年 9 月お世話になる
笹原船長串本の船長、ダイビングポイントササの根、塔の沖を師匠と発見
田子の船長串本田子の浦の船長、ITC の前にとてもお世話になる
丘くんDiving Spot Triton ゲスト、ぼくをとても怒らせた子
原西さんDiving Spot Triton ゲスト、ぼくをと手も怒らせた女性
三山さんDiving Spot Triton ゲスト、一緒に潜ってたのに怖いって気づいてあげれてなかった
福井さんDiving Spot Triton ゲスト、怖いって言ってて一緒に潜降しましょって言ったのに約束を守れなかった
4. S2 Club 関係
名前 (仮名)性別どんな人
ジュンちゃんインストラクター (PADI, NAUI)、ぼくの一番の被害者、ごめんね、ほんとにごめん
戸川さんインストラクター (PADI, NAUI)
国本さんインストラクター (PADI, NAUI)、S2 Club 店長
伊江直也くんPADI ダイブマスター候補生、ぼくの一番の被害者の 1 人、何度も言うけどあれはぼくが悪いんだからね
池上さんPADI アシスタント・インストラクター候補生、ぼくの住崎ゲスト置き去り事件の目撃者となってしまう
アッちゃんPADI アシスタント・インストラクター候補生、中性浮力取れるようになろうね

Dive #104 ダイバーとしての個人史 #1

ぼくが NAUI のオープンウォーター I を取ったのが、当時の職場だった大阪市淀川区の小さなソフトウェアハウスから歩いて 5 分と少しの場所にある小さなショップ海恋 (アレンと読む) さんだった。本来は水中作業を顧客から請け負う BtoB 専門の社員数 4 名程度の小さな企業さんだった。

ぼくの認定に関わっていただけたのは、NAUI インストラクターで社長さんの岡村さん (仮名) と坂下さん (仮名)。後に海恋で一番若かった齋原さん (仮名) も NAUI インストラクターになられ、それまで知らなかったダイビングの楽しみをいろいろ教えていただくことになる。

岡村さんと坂下さんにそれぞれ違う日に南紀白浜の円月島でコンファインドウォーターとオープンウォーターの実習をそれぞれ受けて、なんとか終了したのが 1987 年 7 月 26 日 (日)。

もちろんその時はそのことを知る由もないのだけれども、その年の秋にぼくが知らないところで、もちろん当時のぼくにはぼくのダイバーとしての未来がどうなるのかもわかってはいかなかったけれども、将来ぼくの師匠となる人が NAUI のインストラクターに認定されて、しばらくして新大阪近くのマンションの一室で Diving Spot Triton を開業することになる。なるんだけれども師匠になる人が Triton を開業したことを知るのはもう少し後になる。これ以降、この人のことを師匠と書くことにする。

またオープンウォーター I の講習の時から、ぼくが海恋を離れるまで、ずっとバディとなる児島さん (仮名) とも出会う。仕事を終えて海恋遊びに行くと、なぜかいつもテニスウェアを着て来店されていた。

ぼくと児島さんのオープンウォーター I の講習を終えてから、しばらくしてから岡村さんと坂下さんの双方から、ぼくたちの認定のことで、二人の間でひと悶着あったことを聞かされた。

講習を終えて多少課題は残しつつも、たとえ基準をギリギリであっても満たしていれば、ダイバーとして認定されることは当時から厳しいという評判であった NAUI であってもやはり多い。

その頃はダイバーというものは認定してくれたショップのツアーにそのまま参加することが普通で、ツアーに参加しながら講習を担当してくれたインストラクターに、ダイビングのことや海のことをさらにいろいろ学び続けるのがスタンダードだった。

当時は安いお店を探して右往左往するという行動パターンはダイバーにはなかった。そもそも現在のようにネットなんてなかったし、得られる情報が少なかったのも要因ではあるかと思う。でも基本的にダイバーはこの人ならと思えるインストラクターについていくのが普通だった。

そんな時代だったので、カードが即時に発行されるかどうかは大した問題ではなかった。とはいえ店に遊びに行っても (なにせ職場から徒歩 5 分なので) 認定の話が一向に出ない。出ないので、試しにテンポラリーカードってのがあるって聞いてますが、どうなってます?って訊ねてみた。すると目の前で坂下さんがテンポラリーカードにサインを入れて即時認定証が発行された。

後から聞いた話では、このことで岡村さんと坂下さんの間が険悪になってしまったらしい。岡村さんとしては、ぼくや児島さんにもう少し覚えてほしいことがあったらしく、認定は出さずにもう少しツアーに参加してもらって、フォローアップしたいってことだったとのこと。これは岡村さんから聞いた話。

一方、坂下さんとしては基準を満たしているのだし、ぼくや児島さんが危険な行動を取るようには思えなかったし、そのままショップのツアーに参加しながら学び続ける意志を二人共持っていたので、そのまま認定証を発行してツアーに参加し続けてもらえればよいって考えだったとのこと。

つまりどっちの主張を選んでも、まったく同じ状態になるってことは明白だった。一切何も変わらないのだし喧嘩する必要ないいのでは、としか思えないのだけれど、お二人の間では当時かなり揉めたらしい。それだけが原因だとはさすがに思わないけれど坂下さんはしばらく後に仲間と起業するということで退職されてしまう。

バディの児島さんはそのまま岡村さんのショップに通い続けることになるけれど、ぼくは坂下さんからいろいろ教わり続けていたこともあるし、先輩ダイバーとして慕ってもいたので坂下さんの転職先にも出入りするようになる。かといって岡村さんにもお世話になっていることにもまったく変わりはないので 2 軒のお店をそれぞれうろうろすることに。

当時このぼくの行動が良いことなのかどうなのか判断ができなかったので、後に岡村さんのお店でインストラクターになる齋原さんにも相談してみたことがある。齋原さんは開口一番、いや、ダイバーがインストラクターについていくのは当たり前なことなので、坂下さんについていくのは別にいいんじゃないですか?とのことだった。

でもぼくは完全に岡村さんの店を離れるつもりもなかったし、バディとなった児島さんとさよならするつもりもなったくなかったので、岡村さんのお店と坂下さんが転職した先のお店をそのままウロウロすることになる。

とはいえ、岡村さんにはずっとアドバンスの開催をお願いし続けていたけれども、まったくその気配がないので、もう少しダイバーとして成長したいと思っていたぼくは、他のショップも見て回ることになる。

そんななか、さっき触れたけれども、師匠が新大阪の駅の近くのマンションの一室で Diving Spot Triton を開いたことを耳にする。まだ完全に通うお店を変えるところまで考えてはいなかったけれど、Triton にも遊びに行くようになる。

なので当時は 3 軒のお店をウロウロと回遊するへんなやつになっていた。師匠からすると店に遊びに来はするものの何かを買うわけでもなく、ツアーに参加するわけでもなく、講習を受けるわけでもない、変なやつだときっと思われてたと思う。

当時ぼくはダイビング仲間を増やしたかったこともあって、同じ会社の人 3 人を坂下さんのお店に連れてって、白浜の円月島で体験ダイビングツアーをやってもらったりもしたけれど、坂下さん自身が作業の仕事に忙殺されるようになり、レジャーの方にまで手が回らなくなったこともあって、坂下さんとはそのまま疎遠になってしまうことになった。

そのうち齋原さんが NAUI インストラクターになって海恋がおもしろくなってきた。おもしろくなってきたなという矢先、やっぱり齋原さんが開業したいということで退職されていった。齋原さんが退職された途端に海恋は開業休業状態に突入する。岡村さんが工事やスポーツクラブの講習で手一杯で、お店を維持する時間を取れなくなってしまったことによる。

当時関西国際空港の工事が本格的に進められていて、作業ダイバーの人たちは忙しくしていた。レクリエーショナル・ダイビングの世界から、インストラクターだった人たちがどんどんと離れていっている時期に入っていた。

坂下さんは作業の世界に戻られてしまったし、岡村さんは海恋を開いている時間がない、齋原さんはどこでなにをやっているのかわからない、という状態になってしまって、ぼくは行き場がなくなってしまった。

まさかソロで潜るわけにもいかないし、本当に一緒に潜ってくれる人がいなくなってしまった。海恋がずっとシャッターが下りている状態になってしまっているので児島さんとも連絡がとれない。岡村さん人脈の中では本当に一人ぼっちになってしまった。

当時は現地サービスを個人で利用するという発想はダイバーにはなかった。僅かな人にはあったのかもしれないが、講習を受けたショップとガッツリ繋がることが一般のダイバーにとってはほとんどで、講習を受けたショップが休眠状態になったり、休業、廃業してしまうと、その時のぼくのように即時にダイビング難民化する運命にあった。

繰り返すけれども当時はネットはなかったし、頼りになるのは知人の口コミや雑誌の記事や広告だけだった。

当時アドバンスを一向に開いてもらえないことから心は海恋からは離れ始めていたこともあって、それまで客とは言えなかったし、どんな講習をしていたのかは学科だけしか見ていなかったけれども、自然とぼくの心はそばで見ていた師匠の方を向くようになる。ぼく自身を託すのはこの人しかいないなって。

それでそれ以降、人に体験ダイビングや講習を勧めるときは Triton を勧めるようになった。今の妻が NAUI オープンウォーター I の講習を受けるときも、ぼくが Triton を勧めて、彼女の講習にはぼくもくっついて行っていた。

彼女が串本に向かう車の道中で師匠とぼくのことを話している時に、師匠がぼくのことを、いや、こいつはうちで何か買ったこともないし、ツアーにも参加したことがない、だから客じゃない、ってはっきりと言ったのを今でも覚えていて、申し訳なかったなと今でも笑みがこぼれでてしまう。師匠あの頃は本当にすいませんでした。

結局ぼくは出入りする店を海恋から Triton へと完全に変えてしまうことになった。海恋はいついってもシャッターが下りているし潜りに行くこともできない。通い続ける理由がなくなってしまったので、この人は信頼できる、しかもすごく信頼できる人だわと思った師匠の店 Triton に移るのはぼくとしては自然な行動だった。

ぼくが体験ダイバーと彼女のオープンウォーター I の講習の付き添いを除いて Triton のツアーに初めて参加したのは 1988 年 5 月 4 日 (水) の串本ツアーになる。

またこの頃から本業の IT 系の仕事の客先などで、他のダイバーと知り合うようになり、白崎、白浜、越前などでバディ・ダイビングを始めるようになる。このバディ・ダイビングとショップ・ツアーの二足のわらじは、ぼくがインストラクターというか開業を目指し始める 1993 年頃まで続くことになる。

そんななか 1990 年に派遣先で若手 SE として勤務する、ぼくが生涯のバディと思う小野寺くん (仮名) と出会うことになる。生涯のバディと書くと大げさだけど、ダイビングに一緒に出かける仲間のなかで、彼が生涯でもっとも大事な友人だということになる。

小野寺くんと出会って、利用する拠点を Triton に移すことで、ぼくのダイビング・ライフは小野寺くんとのバディ・ダイビング、小野寺くんの師匠になる白浜で CMAS コースディレクターをやっている高嶋さん (仮名) を頼っての現地サービス利用、そしてぼくの Triton 利用の 3 つの柱態勢になる。

そしてさらっとバディ・ダイビングと書いてきたけれども、今のダイバーから見ると、バディ・ダイビングってなにかしら特別で難しいもの、という感覚があることは知っている。

ただぼくらの感覚で言うと、バディ・ダイビングというのは特別なものでもなんでもなくて、そもそもバディ同士でダイビングをするための講習であったし (これは今でもそう)、ショップやインストラクターからいずれ卒業してバディと一緒に出かけて潜れるようになるためのショップツアーだった。

そういう意味でショップのツアーに参加することも継続教育だった。たとえばツアーで実際に潜りながら、水中でインストラクターが止まれの合図を送ったとき、それは水中の状態がそこから変わるからまずは止まって海の状況を観察しなければならないことを意味していたし、そんなことを数知れずぼくたちはツアーで教わってもいた。

地理院タイルに梶原島ビーチダイビングポイントの場所等を追記して掲載

たとえばこの地図は 1987 年 9 月 27 日 (日) に坂下さんの引率、指導で和歌山県白浜町の梶原島に潜ったときのログに記載した地図だけれども、坂下さんは梶原島東の水路から紀伊水道への出口当たりを出かかったところで、ぼくと児島さんをハンドサインでストップさせた。

そこから先はむき出しの紀伊水道になる。紀伊水道なのだから波もうねりも流れもあるのが普通だ。だから、坂下さんはハンドサインでぼくと児島さんをストップさせた。そして外洋の状態を目で見て確認しろ、とハンドサインを送る。

そして三人で波もうねりも、流れも問題ないことを確認して、梶原島東の水路を抜ける。

そのように、ぼくたちはツアー中に、海や陸上の地形から、海をどう読んで、何を考えて、観察して、どう判断するのかを、坂下さんを始めいろんなインストラクターから学んでいくことになる。

こんな風にインストラクターの仕事はダイビングのスキルを教えることだけじゃなかったし、オープンなどのコースが終わってからがダイバーとしての学びの本番だった。海のことを知るには、より海のことをより深く知っている先輩ダイバーであるインストラクターから学ぶのは当たり前のことだった。

そうしていずれはぼくたちはインストラクターやショップという母港から、バディ・ダイビングを普通に行うダイバーとして出港していく、誰もがそんな船のような存在だった。そして必要なときや、助けを必要としたとき、バディ同士だけでは潜るのが困難なダイビングポイントに潜るときなどには母港に戻る船のようにインストラクターやショップの元に帰港して、再び教えを請うたり、指導を仰ぐ、助けを乞う、そんなことが普通の世代だった。

これがダイバーとしてのスタンダードだった。

なのでインストラクターはすごく尊敬される存在だった。今のインストラクターもそんな存在であることに実は変わりはないのだけれど、環境のほうが変わってしまった。

現在ではインストラクターは安全に潜る能力や意識がない人たちのお世話係になってしまっていて、本来の仕事をさせてもらえていない。世の中がインストラクターに求めているのは指導者であることではなく、単なるお世話係なので、インストラクターの持つ知恵や経験、指導力が発揮されてダイバーを育てるという本来の仕事が阻害されてしまっている。

これは誰が悪いって話になりやすいが、誰が悪いのでもなく安全の責任を過度にインストラクターに求める社会構造の変化や社会の共通認識が広まってしまい、大半のダイバーの意識もそのようなベクトルにシフトしてしまったことで、インストラクターの本来の職能を発揮する場面が、ほぼ消失してしまったということになる。

ある意味、現在の全てのダイバーの不幸はそこから始まっていると言える。誰も気づいていないけれど。

最近になって PADI や NAUI などの潜水指導団体が自立したダイバーになってバディ・ダイビングを勧めていくように舵を切ったけれども、あまり芳しい効果は今のところ出ていない。たぶん無理なんじゃないかと正直思う。だって少なくとも日本では環境がそうなっていないから。日本人という民族が変化しないと、これは変化しようがないと思う。