一緒だった期間は短かったけれど、ぼくにとって親友であり、魂のバディともいえる小野寺くんとの時代の話をしていきます。小野寺くんについてはいろんなところで触れているのですが、Dive #45: ぼくのバディでガッツリと書いているので、ここではそれを再編ペーストしていきたいと思います。
ぼくはもともと、大阪市淀川区にある小さなソフトウェアハウス、世間的な蔑称になりますが俗称コーディング屋と呼ばれる 20 名程度の小さな企業に務めていました。
そこでもう少し大きな中堅クラスの CAD を中心として事業展開している顧客企業から業務を請け負っていたのですが、それをぼくがシステムエンジニアとして担当していました。
請け負っていたと言っても自社に持ち帰っての作業というのが現実的ではなかったので、その顧客企業のオフィスに常駐していました。なので実態としては派遣となんら変わりありませんでした。
わかりやすく表現すると、実態としては、零細企業から中堅 SIer に派遣されている 1 人の SE だったということになります。
小野寺くん (仮名) とぼくが出会ったのは、ぼくがその顧客企業に常駐しているとき、その顧客企業の新人として小野寺くんが入社してきたからということになります。
つまりぼくと彼の関係は、最初は零細企業から派遣されてきているエンジニアと、顧客企業の新人エンジニアという関係に過ぎませんでした。
当時ぼくがダイビングをすることは客先企業の課長さんやその他の人には知られていました。課長さんも以前ダイバーだったということもあり、そのような話を課長さんと交わしたことが何度かあります。
そんなある日「大山さん、ぼくもダイビングを始めたんですよ」と小野寺くんが声をかけてきました。ふんふん、と聞いていたのですが「今度 2 度目の海洋実習に行くんですが、一緒に行きません?」と声を掛けられました。
今から考えると人の CMAS 1 Star (NAUI Open Water I に相当) の講習に NAUI Open Water I の認定ダイバーがくっついていくというのもなんだか変なのですけれど、ぼくはダイビングをする友人を求めてもいたので、二つ返事で、いいよ、と応えました。これがぼくと小野寺くんがバディになった切っ掛けでした。
彼の 2 度目の海洋実習は、ログブックを見ると 1990/03/21 (Wed) とあります。それでくっついて行ってみると、彼はぼくが NAUI Open Water I ダイバーになったのと同じ白浜の円月島で、CMAS コースディレクターの高嶋さん (仮名) の元で、ひたすらスキンダイビング、しかもジャックナイフを徹底的にやっていました。
なんでも彼は耳抜きが苦手で、1 回目の海洋実習ではタンクを背負うことは一切なく、ずっとジャックナイフばかりしていたとのこと。なので彼はすでにジャックナイフで -3m 位は楽に潜れるようになっていました。しかもそれまでぼくが知らなかった 1 レッグ・ジャックナイフという技まで覚えてましたし。
彼はそれまでダイビングはスキン・ダイビングを含めて一切やったことがないとこのとで、それがたった 1 回の海洋実習で、といってもずっとジャックナイフの練習ばかりやっていたこともあって、ここまでできるようになるもんなんだな、と感心していました。
この日、彼が始めてスクーバユニットを背負って潜るときのバディに、インストラクターの高嶋さんに、ぼくが選ばれました。2 人で行っているので自然なことでした。
彼がスクーバのスキルをやっている間は、ぼくは小野寺くんと高嶋さんの辺りで二人を見ていることになるのかな?と思ったら高嶋さんはぼくにもスクーバのスキルをやれと指示してきました。つまり君は NAUI Open Water I の認定ダイバーなんだから小野寺くんに手本を見せれるだろう?ということでした。
ぼくは単なる Open Water I ダイバーなので、小野寺くんの手本になるのかどうかわかりませんでしたが、彼にまざってスクーバのスキルをやっていました。ぼくは前回のダイビングからちょっと間が開いたな、と思ったらリフレッシュ・コースを受けたりもしていたので、リフレッシュ・コースのようなつもりで、小野寺くんと一緒にスクーバの各種スキルやっていました。
緊急浮上法はぼくと高嶋インストラクターでデモンストレーション (?) を先に小野寺くんに見せて、そして高嶋インストラクターは小野寺くんと彼のバディであるぼくにやれ、と指示するので、その指示通りにやりました。
当時、どの指導団体でも緊急浮上法は、緊急スイミングアセント、オクトパス・ブリージング、バディ・ブリージングの 3 種類が行われていましたから、小野寺くんとその 3 種類全てをやりました。
そしてその日の午後、小野寺くんの 2 回目の海洋実習のスクーバスキルの最後に、軽くチェックダイブっぽいミニ・ボートダイブツアーが行われました。
ぼくは小野寺くんが耳が抜けにくいことは聞いていたので (彼はきちんと耳鼻科に行って耳管に空気を通してもらうなどはしていました)、潜降時に小野寺くんに耳が抜けているのかを確認したり、その他問題がないか確認しながら、2 人で潜降していきました。
ダイビング中も、ときおり小野寺くんのエアー残量を確認したりなにか問題がないかチェックしながら潜っていました。小野寺くんもぼくに対して同じようにエアーの残量を確認したり問題がないか確認していました。
ときおりぼくや小野寺くんは何かを見つけると、お互いに呼び寄せて、こんなんおるよ?とか見せあっていました。ぼくはそもそもダイビングとはそういうものだと思っていたし、彼は学科でつい先日それを学んでいたので、自然とそのようなスタイルになりました。ぼくと彼はバディとして Win-Win の関係でした。
高嶋さんが引率する形ではあるのですが、ぼくと小野寺くんは高嶋さんの管理下のもとでバディ・ダイビングを行っていました。でもこの当時は、このようなインストラクターに管理されながらバディ・ダイビングを行うというのは、どこでも見られる日常的な光景でした。当時インストラクターなどの引率者がいても、誰もがバディ・ダイビングをしていました。
このときは引き返すタイミングを高嶋さんが引き返すことを最終決定するだけで、それ以外のことはぼくと小野寺くんでやっていました。ただ高嶋さんの引き返す決定も、実際にぼくと小野寺くんはお互いの残圧を確認して、高嶋さんにそろそろ戻りたいとハンドサインで知らせることで決定されていました。
ダイビングを覚えるということは、バディ・ダイビングを覚えることイコールでした。当時はそういうことだったのであり、実は今でもまったくそれは変わっていません。
昔も今も "ダイビング=バディ・ダイビング" なのです。
翌日は全日スキンダイビングのレスキューに充てられました。場所は前日と同じく円月島です。
大山くん、ぼくが水面での溺者役をやるからレスキューしてみて。オープンでやったとおもうけど。と CMAS コースディレクターの高嶋さん。
はいと、返事するぼく。
小野寺くんは見てて、と高嶋さん。
高嶋さんが迫真の演技で水面で溺れる人を演じ始めます。
ぼくは NAUI Open Water I の講習で学んだように 5m ほどの距離で声をかけます。
相変わらずパニック状態で溺れる人を演じる高嶋さん。
ぼくは高嶋さんの左手側に回り込みます。溺者は必ず手を伸ばして救助者を掴もうとしてきます。ですから伸びてきた左腕の手首をつかんで引き寄せて、背後からホールドします。そのように Open Water I の講習で何度も練習していました。
ぼくは迫真の演技で溺れ役に徹している高嶋さんの左腕に自分の左手を伸ばします。
その瞬間高嶋さんは、ぼくをひっつかんで引き寄せ、激しく暴れながらぼくの体によじ登り始めました。
マスクもスノーケルも弾き飛ばされ、周囲は泡で真っ白になりました。い、息ができない!!
高嶋さんは情け容赦なく、ぼくの頭や肩を水面下へと激しく蹴り、ぼくの体の上に、もっと上にと、よじ登ろうとしていました。こ、これを続けられると、ぼ、ぼくがやばい。溺れる!!
も、もう、だめかも、と思ったときに、高嶋さんがぼくによじ登るのをやめました。
ぼくは激しく咳き込みながら、水面から顔を出して空気を吸います。た、助かった、そう思いました。
ぼくが落ち着いてから高嶋さんが口を開きます。
大山くんどうだった?
し、死ぬかと思いました。
怖かった?
そ、そりゃ、怖かったです。
いいか?大山くん、小野寺くんもだけど聞いて欲しい。本当に溺れている人はああなる。救助しようとした人を捕まえてパニックになりながら空気を求めてよじ登ってくる。あれでもかなり手加減しているけど、怖かったろう。
は、はい。
大山くんはぼくの左手首を掴んで、後ろからぼくをホールドしようとしたろ。
はい。
オープンの講習で習ったからだろ?
はい。
それをやると大山くん、きみは死ぬことになる。
溺れてる人は大人しくホールドなんてされない。だからあれをやってはいけない。救助者が先に死ぬことになる。あれは熟練した救助者でもできない。
ぼくと小野寺くんは息を飲む。
それじゃぁどうすればいいのか、ぼくが見せるから。今度は大山くんが溺れる役をして、ぼくによじ登ろうとしてみて。さっきのぼくみたいに本気であばれて、よじ登ろうとして。本気でね。
どれだけ迫真の演技になってるのかは分からなかったのですけど、水面で溺れるスキンダイバーの役を必死で演じ始めました。両手を大きく振り回し、上半身も振り回し、胸まで水面から出るように必死で演じ始めました。
こ、この溺れるのを演じるのって、かなりしんどいぞ。た、体力持たないかも。
ぜぇぜぇ言いながら演じていると高嶋さんが近づいてきます。離れた位置から声をかけて左手側に近づいてくるのはぼくと同じです。
高嶋さんが手を伸ばしてきた瞬間、ぼくは高嶋さんをひっ捕まえて、よじ登ろうとしました。
できませんでした。
高嶋さんは、球技のプッシングのように、ぼくを両手のひらでポーンと弾き返しました。ぼくはさらに何度も何度も高嶋さんをひっ捕まえようとしたのですが、その度にボーンポーンと弾き返されて高嶋さんに近づくことすらできませんでした。
大山くん、もういいよ。大山くん、ぼくに近づけなかったろう?
はい。相手を弾くことでよじ登られないようにできることはわかりました。でも、あれからどうすればいいんですか?
溺れてる人の意識がなくなって動かなくなるまで待つ。
えっ!?
意識が無くなって動かなくなったのを確認してから陸やボートに曳航する。
ぼくと小野寺くんが声を揃えます。えっ!?で、でもそれって、た、助かるんですか?
死ぬかも知れない。
えっ!?
でも死体が 2 つより 1 つの方がマシだ。それに幸運なら誰も死なないかも知れない。大山くんが習った方法でレスキューできたか?
とてもじゃないけど無理でした。で、でも、もし小野寺くんがああなったら、ぼくは小野寺くんの意識がなくなって動かなくなるまで待たないと駄目なんですか?
小野寺くんも言います。
大山さんがああなったら、ぼくも大山さんが動かなくなるまで待たないと駄目なんですか?
そうしないといけない。そうしないと 2 人は一緒に死ぬことになる。しかも助けに行った方が先に死ぬ。
ぼくたち 2 人は顔を見合わせる。
だから、君たちは 2 人で考えないといけない。そうならないように、どうすればいいのか。
レスキューのトレーニングを終えた帰りの車の中で小野寺くんが口を開きます。
大山さん、どうします、あの件。ちょっとぼくは大山さんがああなったら放置できないんですけど。
うんぼくも。どうすればいいんだろう。どうするのがいいのかわからないけど、でもまずは、ぼくはレスキューは取ろうと思う。今のままだと、もしものときに君を殺してしまうことになってしまう。そんなの耐えられない。耐えられるはずがない。
ぼくもです。まだ 1 Star の講習が終わってないけど、終わったらすぐにレスキューを取ろうと思います。
うん、お互いに、最悪の事態に直面したときに助けられないかも知れないけど、全力は尽くしたい。
ぼくもです。
彼はぼくのためにより良いダイバーになろうとしていました。ぼくも彼のためにより良いダイバーになろうと誓いました。
ぼくにはもうぼくのバディは彼以外考えられなくなっていました。小野寺くんとなら、これからも事故を遠ざけながら、ずっとダイビングを楽しみ続けることができる、そう確信したのでした。
恐らくこの瞬間、ぼくたちは本当の意味でバディになったのだと思います。
そんな真面目な話をしていた 5 秒後には、次、どこ行こっか?なんて呑気な話をしていました。
大山さん、次はもうちょっとボートやりたいっす。
だよねぇ。やっぱり君は高嶋さんのところがいいよね?
ですねぇ。ボートはまだ昨日のだけだし。
それじゃぁ大阪帰ったら、また高嶋さんに連絡とって相談しようか。ぼくもボートの経験は少ないし、白浜のボートのポイントもぜんぜん知らないから。高嶋さんに教えてもらってる君が一番適任だと思うし、頼んでいいかな。
それじゃぁ、ぼくから高嶋さんに相談してみます。
あとね、日本海の越前にね、軍艦岩っておもしろいポイントがあるのよ。最大水深が -30m 近くまであるから、気をつけないといけないんだけど。海底近くから見上げる軍艦岩がど迫力でかっこいいのよ。一緒に行きたいな。さっき高嶋さんもきみら 2 人だったら大丈夫だろ、とか言ってたからどうかな?
いいっすね。
日本海は夏がシーズンだから、それくらいの時期になるけど、計画考えてみるわ。また相談に乗ってよ。
なんて感じで大阪へと帰っていくのでした。
このときのぼくたちの関係が、その後のぼくのバディという関係の基準となりました。
マニュアルにダイバーは継続コースやインストラクターのもとでダイバーとして向上しなければならないと書かれています。ですがマニュアルにそのように書かれているからダイバーとして向上しようとするのではなく、ぼく自身のためだけでもなく、バディのためにもダイバーとして向上しなければならない、そういうダイバー像がぼくの中で生まれたのがこのときだと言えます。
それをしないのならばダイバーとしてあまりに無責任である、たとえオープンウォーターダイバーであってもあまりに自分の命とバディの命に対して無責任である、そう考えるようになりました。
ぼくにとってはこれはダイビングを続ける上でのルールでも目標でもなく、いや目標でもあるのですが、前提条件であると認識するようになったと言えます。バディの存在とバディ・システムの存在、そしてそれを遵守すること、深堀りしていくことは、全ダイバーの義務であり、ダイビングをする上での前提条件である、という認識に至ったことになります。
これ以降、ぼくはこの認識を共有できない人とは、プライベートでは一切潜れなくなります。なぜかというとこの認識を共有できない人は怖いからってことになります。
そんなぼくたちでしたが、そんな幸せな時間は長くは続きませんでした。バブルと呼ばれる時期は終わりを告げようとしていましたが、IT バブルというものが相変わらずそのまま続いていました。
バブルのときも IT バブルのときも、エンジニアだったぼくたち 2 人は、家に帰れずオフィスに泊まり込みが連続して、休日も無く、文字通り 365 日連続勤務状態で、あまりに忙しすぎたのです。過剰な好景気がぼくたち 2 人を遠ざけ、海から遠ざけていました。バブルがよかった?どこが?というのが正直な気持ちです。
ぼくはぼくが最も信頼するバディである小野寺くんとダイビングを楽しみ続けたかった。でも時代がそれを許してくれませんでした。
注: イラスト中のポケットマスクの表現について
スライド画像のレスキュー曳航シーンでポケットマスクを使っていることがわかると思います。
今では使うことがレスキュー曳航の大前提となっていますが、当時はドゥ・セイ・ドゥによる曳航が常識とされていて、ポケットマスクの存在はダイビング・インストラクターにはまったく知られていませんでした。
ぼくと小野寺くんはこのときに高嶋さんに勧められて、使い方をトレーニングしてもらい、それ以降ダイビングのときは常備するようになりました。
それ以降、いろんなインストラクターの目の前で BCD のポケットにポケットマスクを放り込んでいるのを見咎められて「なんだ、それは?」と毎回のように訊ねられることになります。
そのたびにポケットマスクの目的、効果、使い方を説明していました。
指導団体を問わず多くのインストラクターに、そんな道具に頼ってどうする!?ドゥ・セイ・ドゥこそ取るべきレスキュー方法だろう!!それでもダイバーか!!と何度なじられたことでしょうか。
でも時代は正しく変わりました。
今ではダイバーならポケットマスクは常に携帯して、レスキューの際は使うことができなければなりません。コース基準やインストラクターマニュアルにそのように書かれています。ポケットマスクの使用は MUST になっています。
ポケットマスクの利用が前提となることで、要救助者の口や鼻を波から守り、曳航中に溺水させることなく曳航することができるようになりました。
ダイビングの常識が正しく矯正された一例と言えます。
このようなぼくのターニングポイントとなった小野寺くんとの話は今回だけですが、次回はぼくと小野寺くんがどんな風にバディダイビングをしていたのか、ログブックから引用したりしてみたいと思います。明日以降更新しますので、少々お待ち下さい。
次回、「* ログブックから振り返る二人のダイビング *」をお送りします。デュエルs……え、それはもう良いですか?わかりました。ではまた来世!!