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01 月 19 日 ( 月 )

Dive #114 1999 年 3 月 21 日 和歌山県串本町住崎のこと

やはり自分としては 1999 年 3 月 21 日和歌山県串本町の住崎でのことを決着してしまわなければならない。決着はできないのだろうけど、取り上げ続けないとぼくの人生の全てが終わってしまうような気がしている。中途半端なままで。なので性懲りもなく今回も取り上げる。

というのは昨日の "Dive #113 1990 年 3 月 21 日 和歌山県白浜町円月島の意味"を整理することで、もしかするとぼくに起こったことがなにで、それに対してぼくの反応としてダイビング自体ができなくなった、という全体図を俯瞰できたかも知れない、と思えたからだ。

ぼくは 1990 年 3 月の白浜で、バディを海でうしなうことに恐怖する人間になったことを先のエントリーで整理してまとめた。実は喪うことが怖かったのはバディの命だけではなかった。一緒にダイビングをしている誰か、それがたとえ知らない人、その場限りのチームメンバーであっても、自分が少しでも関わった人の命が海で喪われることが怖かった。

だから 1992 年の大瀬崎でも雲見でも、ダイバーが消えたことと、消えたダイバーのバディが無頓着にダイビングを楽しみ続けている姿を見て恐怖した。

だからインストラクターになることを目指した。そして師匠が自分が育てているダイバーがそのようなダイバーにないために必要な、ありとあらゆることをやっていることに気がついた。だからぼくは師匠のようになりたいと願った。ぼくは師匠のようになることを目指した。

ぼくはぼくの恐怖心を燃料として、その先を目指していた。

そんななかぼく自身がやってしまったのが 1999 年 3 月 21 日の住崎でのエア切れ緊急浮上によるゲスト置き去り事件だったりする。

これを言うといろんな人から非難されるだろうし、師匠が目にしたら烈火のごとく怒ると思うのだけれど、緊急スイミングアセントで住崎のアンカー付近 -15m から浮上しているとき、ぼくはとても落ち着いていた。

それまで静かなパニックで頭の中が真っ白になって思考することができなかった脳が、エア切れを実際に起こすことで働き始めていた。

レギュレーターが NDS だったことから海底で 1 呼吸吸えたこと、環境圧の減少から途中で 1 呼吸できるであろうこと、また普段 8m くらいのスキンダイビングが普通にできていたことから往復分 16m であれば水面に達することができるだろうと考えた。当時 -10m までのスキンダイビングはできていたから余裕はあるはずだった。だからおそらく自分はここでは死なないだろうと、近づく水面を見ながら冷静に思っていた。

でも水面に浮上してオーラルで BCD に吸気しながら、ぼくは恐怖していた。ゲストを水中に置いてきたままだ。ぼくは自分の浮力を確保すると周囲のボートに声の限りに叫んでいた。「タンクを貸してください!!」

たまたま師匠が別のボートの上でエントリーの準備をしている姿を見つけた。それまで師匠が串本に店を移転していたことを知らなかった。ぼくは声の限り叫んだ。「師匠!!タンクを貸してください!!」

ぼくは借りたタンクで水面から踵を返して、二人の姿を探した。

いた!!

安全停止してる!!

ぼくはジュンちゃんにゲストを託して水面に戻って師匠にタンクを返す。

でもボートが袋港に帰ってもぼくの身体の震えは止まらなかった。

その日の晩ぼくは泣きながらダイブマスターコースをやめたいとジュンちゃんに言った。ぼくには二人のダイバーを殺したとしか思えなかった。

それは想像に過ぎないと言われたらその通りなのだけれど、そのときその変わり果てたゲスト 2 人の姿がぼくの頭から消えることはなかった。

もちろんゲストのバディはぼくの指導インストラクターだったジュンちゃんだったので、事故は起こりようもなかった。でもあったかもしれない 2 人のゲストの死を頭から消すことはできなかった。

だからぼくは潜れなくなった。

ぼくが 1999 年の住崎以降潜れなくなった原因は 1990 年の白浜円月島にまで遡る。あのとき生まれたバディを死なせる恐怖心が 1999 年の住崎からぼくを潜れなくした。

そういうことだったのだった。

ただそれだけだった。


住崎以降、ぼくの担当をジュンちゃんが外れるようになった。ぼくがダメージを受けることで、ジュンちゃんもダメージを受けていたのかも知れない。

ぼくはそれまで 1 年半ダイブマスターになるトレーニングを受けていたが、それでもダイブマスターに認定される見通しはまったくなかった。開業を目指す以上コース基準を満たすだけでは終われない立場だった。先が全く見えなかった。だから憔悴して疲弊していた。

ジュンちゃんも自分を雇用しているオーナーレベルにまで、たかが NAUI アシスタント・インストラクターのおっさんを育てろという至上命題を与えられて、先が見えずに憔悴して疲弊していたのかも知れない。

ぼくが苦しんでいたように彼女も苦しんでいたのかも知れない。

もし彼女が S2 Club で彼女自身のキャリアを閉ざしたのなら、彼女自身の未来を閉ざしたのなら、その責任の一端はぼくにあったのかもしれない。だからぼくは今でも彼女に申し訳なかったと思う。身勝手な願いだとは思うが、できれば彼女にまた会って謝りたいなと思う。

その身勝手な願いは、もうおそらく叶わないのだけれど。

言葉でぼくの問題を具体的に示してくれていたジュンちゃんが眼の前からいなくなって、ぼくは文字通り糸の切れた凧のようになってしまったのだった。