ぼくにとってダイビングって何なのだろうと考えることがある。たまにだけど。
たぶんぼくにとってダイビングも高校生の時から入れ込んだ山歩きも、やっていることは一緒で、たぶん目的も一緒なんだと思う。
それを行うのに必要な知識を自分の頭にインプットして蓄積していく。そして実際にそれを実行に移すための準備をする。そして実行する。そして無事に帰宅する。昔からそうだ。
だからぼくのダイビングや登山の目的ははっきりしていて
いう 3 つが目的になっている。プロセスそのものが目的になっている。
この目標の中に頂上を踏むだとか、このポイントをどこまで潜って何を見るとかそういったものはない。いや、ないわけでは無いけれど、優先順位はどちらかというと低い。だからぼくにとってアクティビティを実行するということは、ただその場所にいる、ということに過ぎないのかもしれない。
例えば鈴鹿山脈最北端に霊仙山という山がある。360度の視界が得られる眺望の良い山だ。ぼくは厳冬期のこの豪雪地帯にある山に登った。登ったと言うより連れて行ってもらった。
2 月の晴れた霊仙山は最高だった。時折雪崩のゴーという音がこだまする。風もある程度は吹いていた。風と雪崩の音と、ぼくの心臓の鼓動の音と、ぼくと同行者の呼吸の音しか聞こえなかった。360度見渡す限り白い山である。
街は山の隙間にこじんまりとあった。そこは登山を終えたらぼくが帰るべき場所だ。
その後、3 度ほど夏場に霊仙山に登ろうとした。でも 3 度とも山頂を踏むことなく経塚山の避難小屋あたりで撤退した。雷が山頂付近にガンガン落ちていたからだ。
もしぼくが山頂を踏むことを登山の目的としてたら、無理をして雷の間隙をぬって山頂に立とうとしたかもしれない。でも山頂に立ったとしても雷で命を失っていたかもしれない。
ぼくは危ないと思ったら、あるいはそう恐れを抱くのに充分な状況であれば、いとも簡単に山頂に立つことなんて捨てる。
山頂を踏まず途中で撤退しても、やっぱりそれはぼくにとっては登山という行為であって、たしかにぼくはその山にいたし、間違いのない判断をして無事に街に帰ったのだから、ぼくにとっては山頂を踏むことなく撤退していても、正しく行動したのだから、それは成功した登山だと言える。
ダイビングでも同じことなんだと思う。
ぼくはボートが出港して、ダイビングポイントに着く頃に、急に海が荒れだしていたなら、そしてぼくだけでなく同行者が無事にエキジットすることが難しいと感じたら、躊躇なくダイビングを中止する。あるいはそのダイビングの管理者に即時中止を進言する。
そうしないとこの中の誰か、目の前にいる誰かは無事にボートにエキジットできずに、ぼくの目の前で亡くなるとしか思えないし、ぼく自身が無事に帰宅するという目的が達成できないからだ。
でもそれでは実際には潜らないのだから、ダイビングを行ったことにならないのでは?という指摘もあるかもしれない。でもぼくにとっては潜ることができる前提がエントリー前にすでに壊れているのだから、エントリーの中止という良い判断をした良いダイビングだったりする。エントリーしていないのでログブックには残らないけれど。
そのようなエントリーを中止したけれど、ぼくにとってはダイビングとして成立しているダイビングが実はこれまでに数本ある。同行者にとってはダイビングは行われなかった、日にちも費用も損をした、ってことになるんだろうけど、ぼくにとっては全員無事に陸に帰った正しい判断が行われた良いダイビングだと感じている。潜ってなくてもダイビングなのだとぼくは思うけれど、おそらく他のダイバーにはこれは理解されないと思う。
だからぼくにとっての実行というのは、山にいることだったり、海の中にいることだったりする。場合によってはそこにいることですらない、それがぼくにとってのダイビングであり登山なんだろう。海や山でなにかを達成するというものなどではない、ということなんだろう。
だからぼくにとっては「行きたい」と思った瞬間から、ダイビングも登山も家にいるときからダイビングであり登山であって、次の「行きたい」までそれは続いているんだと思う。過程の全てがぼくにとってのダイビングであり登山なんだろう。なので実際に現地で潜らなくても登らなくてもダイビングや登山として成立するんだろう。